イスラエルの鼓動
1999年11月
ウィリアム・E・カリー師による中東の外観と内部事情
ユダヤ人、異邦人、教会の正しい区分
信者は神に近づくために"もっとユダヤ的"になるべきか?
「なぜユダヤ人に伝道するのですか? 彼らはすでに旧約聖書の神の契約の保護下にあるのではありませんか?」「私はイエス様を私の救い主として受け入れましたので、ユダヤ人だったイエス様と同様に、今からユダヤ教に改宗しなくても良いのですか? ユダヤ人でなければ神様に良く見られないのではないでしょうか?」
これらは、私が各地でいろいろな教会を廻っている時に、よく耳にする質問の一部だ。まじめな質問なのであるが、聖書理解において彼らが混乱していることを吐露している。聖書解釈によっては、近代ユダヤ教などによってロマンチックに歪められてしまったりする一方、ユダヤ民族に対する神の契約はすでに破棄されてしまったという思想をもたらしたりもする。
これら欠陥聖書解釈の源泉には聖書解釈学の問題がある。解釈学とは、科学的(時には芸術的ともいえる)注解などを含んだ聖書語句の解読方法である。それが聖書本文の意味を確定する基本になっているのだ。学者も素人もこの方法を聖書解釈の時に用いている。それでは上記の質問をどのように取り扱ったらよいのであろうか?
まず近代ユダヤ教やユダヤ民族と関係を持つ前に、各自が明確な答えを持たなければならない。ユダヤ人たちは福音を聞く必要があるのか? より神に近づくために信者はユダヤ化しなければならないのか? 聖書は何と記しているかを見てみよう。
字句通り、あるいは秘められた意義があるのか?
今まで聖書解釈には、主に文法的・歴史的解釈と寓喩的解釈の二つの方法が用いられてきた。文法的・歴史的解釈法は、直訳・写実主義的方法で、意味も普通一般の慣習的解釈がなされるものである。これは執筆者の時代の意味と理解を一語づつ吟味することを基本にしている。つまり文脈も、理論も、歴史も、地理や考古学をも用いて解釈していくのである。聖書は特別に明確な注釈が付けられている場合を除いて、一般常識的に文字通りに解釈すべきだとするのがこの解釈法で、聖書を真正面から取り扱っている。
一方寓喩的聖書解釈というのは、時には“聖句の霊的解釈”とも呼ばれている。読者はすべて文字通りの解釈をせずに、暗号解読者のように隠されている意味を探求するのである。例を挙げれば、私の知り合いの教授のように、寓喩的解釈で黙示録の霊解論を教えて「メシアが地上で統治されることも千年王国も無く、黙示録20:2にある千年は、永遠の始まる前に再臨されるメシアのまだ来られていない現代の長い時間を意味するものだ。」と言う。この聖句に関して彼は「やがてサタンが長い期間縛られるのですね?」と言う生徒の質問に「サタンは今日すでに縛られています。ただ長い鎖でつながれているだけです」と答えていた。この様に寓喩解釈法は、記されている文字以上の解釈が自由にできて、意味も変えてしまうことが可能なのだ。
寓喩解釈法によって、客観的聖書注解が意味を失ってしまうと私は感じる。各自の神学的前提によって都合良く意味を変えて解釈してしまうならば、神のみことばの権威はどうなるのだろうか。救い主の人格や御業に対する聖書の預言(誕生、生涯、死と復活)は、すでに成就された。イエス様の十字架上のお言葉まで、文字通り正確に実現しているのだ。それではなぜ信者たちが、預言されている神様のご計画と使命の中にあるユダヤ民族、異邦人、教会についても、文字通り実現することを期待しないのであろうか?
三種類ある神のご計画
文法的・歴史的解釈法によって、原点において逐語的・完全霊感されている聖書の権威を認めて、神様が人類にお与えになったプログラムの三つの区別を見ることができる。それは異邦人、イスラエル民族、教会に対する神のご計画である。
神の異邦人計画
聖書は広範囲にわたって異邦人に対する啓示を記し、イスラエルと教会と切り離して取り扱っている。ダニエル書2章において、ダニエルはネブカデネザル王の恐れた夢の解き明かしを神より啓示された。ダニエルの解き明かしには、異邦人たちがイスラエル民族とエルサレムを支配するという“異邦人の時”が予告されている。またダニエルの預言によると“異邦人の時”は主の再臨によって終結する。それは異邦社会の勢力が破壊され、メシアの王国が到来する時である。この審判の描写は、人手によらず、山から切り出された岩が、鉄と銅、粘土と銀、金の像をこなごなに打ち砕くというものである。(ダニエル書2:44,45)
メシアの千年王国時代には、地上に存命中の贖われた異邦人たちが、ユダヤ人の神を礼拝したいという願いを持ってユダヤ人を探し求めることになる。『その日には諸国語の民十人にて、ユダヤ人一人の裾をとらえて…言わん。我ら汝らとともに行くべし。そは我ら、神の汝らとともにいますを聞きたればなり。』(ゼカリヤ書8:23)その他の異邦人はその時、神から分離された黄泉で永遠の裁きの時を待っている。
神のイスラエル計画
カルデヤのウルから召し出されたアブラハムは、創世紀12:1~3によって幾つかの契約を神様より与えられた。『我汝を大いなる国民となし、汝をめぐみ、汝の名を大いならしめん。…我は汝を祝福する者を祝し、汝を呪う者を呪わん。天下のもろもろの宗族、汝によりて幸いを獲ん。』アブラハムに対して成された個人的な約束は文字通り成就し、地上のすべての民がアブラハムを通して祝福されることは、成就されつつある。
アブラハム契約の中で、彼の肉体的子孫の地理的土地の所有、国家・民族としての存続は無条件の契約である。(創世記15:7~21) 神の契約は、アブラハムの行為にかかわらず、神がみことばをアブラハムにも息子イサクにも成就すると確約している。
神とイスラエル民族との追加契約は、モーセ、ダビデ、エレミヤを通して定められた。それらのいくつかはアブラハム契約と同様に無条件、その他は民の従順さを条件にしている。モーセ契約とパレスチナ契約(申命記28~30章)にある約束の土地においての繁栄は、アブラハムの子孫の神に対しての従順さを条件にしている。
ユダヤ人たちは創世紀15章で神が約束された土地全部を、未だかつて所有したことがない。ましてエレミヤを通して示された“新しい契約”(エレミヤ書31:31~40)を満喫していない。この無条件契約にある『我わが律法を彼らのうちに置き、その心の上に録さん…小より大にいたるまで、ことごとく我を知るべければなり。』というものも文字通り成就しなければ、アブラハムや他の契約の成就と一貫性が保てない。教会が新しい契約の一部の恩恵に浴しているのは、イエス様が中保者として流された御血の故である。しかしアブラハムの肉体的子孫に対して、この契約はまだ字句通りの成就を見ていないのである。
将来イスラエルは、彼らの土地で、エルサレムから統治されるメシアの下に住む希望がある。サタンは縛られ、地上に生きている者たちはメシアの王国を満喫することになる。神はご自分の民のための契約を、まだすべて成就されていないのだ。
神の教会計画
神の異邦人計画はアダムとエバの創造に始まり、イスラエル計画はアブラハムの召命に始まったということは、当然教会計画にも始まりがあることになる。復活された救い主の昇天後、聖霊の降臨を待望していた弟子たちが2階の部屋にいたペンテコステの日、聖霊はその部屋で信者たちをひとつの身体にバプテスマ(浸しこむ、入れる)されたのである。弟子たちは聖霊の御力によって、ペンテコステの祭りでエルサレムに集っていたユダヤ人たちに福音を伝えたのだ。
教会の骨格について、イエス様はピリポ・カイザリアにおられた時に弟子たちに予告された。主は聴衆に「人々は我を誰と呼ぶか?」と質問された。人々は、バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤ、あるいは預言者の一人と答えた。そこで主は弟子たちに『汝らは我を誰と言うか?』(マタイ16:15)と質問された。ペテロは父なる神の啓示によって『汝はキリスト、生ける神の子なり。』(マタイ16:16)と答えた。 このペテロの“メシアの神性”告白によって、主は『我わが教会を建て』(マタイ16:18)と宣言された。主は今まで奥義であった“新しいこと”を将来なさると宣言されたのだ。その“教会啓示”の直後から、主は救い主の受難と復活を語り始められ、ただにユダヤ人のためだけでは無く、すべての人類のために神は独り子を死なせるためにお与えになったと言われた。
主は現在まで2000年ほどのあいだ、彼の教会建設をしておられる。彼の御身体に属する者はユダヤ人と異邦人の区別なしに、神の子たちとされている。(ガラテヤ書3:26~28)民族、性別、社会的、経済的違いはもはや重大な問題ではなく、メシアにあってユダヤ人も異邦人も“ひとりの新しい人”とされている。(エペソ書2:15)
ユダヤ民族は"新しい契約"を未だに享楽していない
究極の神のご計画
やがて異邦人は裁かれ、イスラエルはメシアの千年王国に入れられ、教会は『いつまでも主とともに居る』(第一テサロニケ4:17)ために携挙される。絶対主権者の神は、人類に対するご計画の起源と目的、終結まですべてを明確に語っておられる。
なぜ信者たちはメシアのために、ユダヤ人たちに伝道しなければならないのだろうか? 主の弟子たちは初代教会においてそれを実行したので、エルサレム教会はユダヤ人によって設立された。パウロに与えられた宣教の使命は、ユダヤ人をはじめ、異邦人にまでであった。今日まで“頑固な心”(ロマ書9章)によってユダヤ人多くの中に反対意識が存在する。しかし神は福音宣教によって“恵みの選びによる残りの者”(ロマ書11:5)を御自身に招いておられる。
信者は神に近づくためにユダヤ化すべきなのか? 神はキリストの御身体の中に、何の民族的区別をも設けておられない。救いはすべて恵みによってであり、人のいかなる行為によるものでもない。パウロはロマ書2:28~29でこう記している。『それ表面のユダヤ人はユダヤ人たるにあらず。肉にある表面の割礼は割礼たるにあらず。内面のユダヤ人はユダヤ人なり、霊による心の割礼は割礼なり。その誉れは人よりにあらず、神より来るなり。』
イスラエル寸描
*イスラエル人口600万人を突破
1999年9月9日、ロシ・ハシャナ(ユダヤ暦の新年)の前日、イスラエル中央統計局はイスラエルの人口が614万5千人に達したと発表した。
これは前年から14万7千人の増加である。人口の79%はユダヤ人、15%はイスラム教徒、6%はドルーズ教徒やクリスチャンなどの“統計に入らない者”たちだそうだ。人口増加の35%は移民によるもので、その3割ほどはロシア連邦からの人たちで占められている。
*福音派アラブ教会の影響
東エルサレム・ナザレン教会の、ニザァ・トウマ牧師によると、イス ラエル在住のアラブ人福音派クリスチャンは、約8千人存在するという。
彼はメシアニック行動委員会のメンバーでもあるが、約35のアラブ福音派教会があり、20はイスラエル領に、14はアラブ領に、一つはガザにあると言っている。これらの会衆のほとんどは、聖書学校か神学校の訓練を受けた、フルタイムの牧師を扶養する経済力を有している。
ウィリアム・カリー師は、1989年AMFインターナショナルの理事長退任後、スワニー夫人とともに宣教師として多くの時間をイスラエルで過ごし、隅々まで巡回して政界・教育界の指導者たちをはじめ、一般市民層から、パレスチナ・アラブ人まで幅広く親交を持ち、福音を宣べ伝えている。(訳者注)去る12月26日、カリー師は心臓発作で危篤状態になりましたが、全世界のクリスチャンの祈りが捧げられ、奇跡的に命が保たれ回復されました。先生の健康と働きのために、ご祈援お願いいたします。
(AMFインターナショナル発行 邦訳;石黒イサク)