イスラエルの鼓動1998年12月
中東の外観と内部事情(記述;ウィリアム・E・カリー牧師)
 
イスラエルケヒラの内部を一見
 
 “教会”といえば、街角にそびえる荘厳な建物、あるいは公共施設を利用していて、だれでも分かるすてきな場所。車の列から、駅から多くの人たちがその建物へ流れていく。オルガンと聖歌隊、時にはドラマの公演、神学校を卒業した牧師たち、時には二、三回の聖日礼拝と、平日にも多くの教会活動などなど、、、 その他にもアメリカ人が満喫している教会についてのいろいろな事を書きならべることが可能だろう。イスラエルにおいて教会とはどのような意味を持つのだろうか? イスラエルの信者は教会をどう理解しているのか? 彼らは教会を“ケヒラ”と呼ぶ。ヘブル語で“集会、会衆”という意味で、宗教的な集まりを指す言葉だ。イスラエル旅行中にケヒラを探そうとすればたいへんだ。看板も電話帳広告も何もないからだ。現地の人々と同様に、メシアニック・ジューに誘われるか、パンフレットをもらわなければ集会の場所はなかなか見つけにくい。
 
まず基本的な事柄では
 アメリカではごく当たり前のことでも、イスラエルの信者には難しいことがいろいろとある。まず第一に彼らは、持ち家・賃貸に拘わらず集会場所の確保が問題である。賃貸の集会所を持っている会衆がごく少数存在するが、一般的にユダヤ人はメシアニックの集会には場所を貸さない。もし誰かが集会場所を借りようとすれば、ユダヤ教徒が来て賃貸条件に違反しないか検査をしたり、支払えないような法外な家賃をふっかけて、借りられないようにしたりする。ガリラヤでホスピスを経営するユダヤ人信者は、ケヒラをやめさせようとする家主に高額の家賃を請求された。家主はケヒラが集会をする土曜日に、その建物を使う目的も無いのに、ユダヤ人の圧力でそのような事をしたのだ。しかし感謝なことに、この支配人は現在も以前と同じ家賃でその建物を借り続けている。  
 ほとんどのケヒロット(ケヒラの複数形=諸会衆)は、個人の家で集会を持っているが、どこでも人数が増えていてすし詰め状態だ。ネゲブ地方の新しい会衆は、指導者の借家でシャバット(安息日)集会を守っている。この家には大きな居間があるので全員を収容できるが、指導者は会衆のために大きな負担をして、彼の家族には不必要なこの大きな家の家賃を支払っている。“家の集会”と言ってもほとんどがアパートの一室だ。“ヴィラ”と呼ばれるアメリカなみの高級な家に住める人はごく少数であるとともに、イスラエル人は上下左右に生活音がある場所の方が安心感を覚えるからだ。信者たちが集会を開いて大きな声で賛美を歌い、説教や祈りをするので、隣人たちから質問されることがあると言う。
 ガリラヤ地方のある会衆は、階下の家族から集会中によく妨害を受けた。彼らはあらゆる事をして集会を止めさせようとしたのだ。集会が始まると庭で沢山の草を燃やして煙を出し、暑さの厳しいイスラエルで、外気をとり入れるために開いている窓から煙が入るようにした。そこでケヒラは大きなエアコンを購入して窓を閉められるようにした。すると今度は、下の部屋でバスケットボールを天井にぶつけて騒音を立て、集会を邪魔した。たび重なる妨害の中でもこの群は成長し、部屋に入りきれなくなったので町外れにあるヴィラを借りて集会をするようになった。するとまた他の問題が発生した。安息日にはすべての交通機関が止まってしまうため、大きな町を横断する手段が無いのだ。
 イスラエルのケヒロットは、土曜日に集会を守っている。なぜならばその日だけが休日だからだ。集会を日曜日にすると、忠実なほとんどの信者が出席できなくなってしまう。“ヨム・リション”(一週の初めの日)はみんなが働かなければならない日だからだ。しかし国内のすべてが休みになるシャバットには、バスも他の交通機関も全部止まってしまう。だから信者の集会は常に困難が伴うのだ。礼拝を守るために、長距離歩いて来る人たち、車に便乗させてもらう人たち、アラブ人のタクシィに乗り合わせて来る人たち、、、
 彼らの集会に一度参加してみると、言語の違いはとても興味深い体験だ。それぞれの言葉のグループに分かれて席に着くと、賛美が始まる。通常ヘブル語と複数の言語が用いられている。帰還して間もない、ヘブル語の苦手な人たちは、通訳者に頼り切っている。用語の意味や訳し方を相談したりして、通訳が遅れることも多々ある。
 いくつかのケヒロットでは、集会中に献金を集める。人前に目立たないように献金できるように、箱を準備している所もある。献金を集めることでも会衆の指導者たちは困難な問題に直面する。それは「だれが献金を銀行に預けるか?」というものだ。イスラエルでは法律上、教会のために誰かが口座を開設することはできない。法人登録には“アムタ”と呼ばれる高額な法律上の書類手続きが必要で、ごくわずかな会衆しか実現不可能だ。「一個人が自分の口座に献金を預かる」という方法は、資金の透明性の問題よりも、「課税される」という他の問題にも引っかかるのだ。
 ケヒラの長老たちは通常、交代で説教を担当している。その内容は信者の生活を奨励するものが多く、個人のデボーションや伝道などについて教えている。それぞれの長老は説教で自論を強調する傾向があるので、現在のイスラエル会衆の必須科目は、正しい聖書理解に基づく礼拝説教であると私は強く感じている。
 フルタイムの牧会者はイスラエルではごく少数であり、牧師給を受けている人は全土でも数名にすぎない。故に牧師たちは家計を支えるために働かなければならない。神学校・聖書学校などの牧師養成施設はわずかで、ヘブル語で書かれた聖書の注解書や聖書研究文書などは稀少である。
 
成長する会衆の宣教活動
 イスラエルの信者たちが困難に直面していると言っても、過去9年間にわたって私が支援し奉仕してきた会衆は成長し、伝道を活発に行っている。MAC(メシアニック・アクション委員会=イスラエル在住の信者を代表し、メシアニック・ジューの立場を指導する合法の運動団体)の統計を紹介する。
 ―1948年には、イスラエル建国のために帰還していた10名ほどの信者しか存在しなかったようであるが、1990年には約3,000名ほどになり、現在は7,000名に到達すると思われる。これは結果を恐れてまだ公けに信仰表明をしていない人々を含まない数字である。メシアニック・ジューの中で旧ソ連邦からの帰還者は2,000名を数え、その半数はイスラエルに帰ってから信仰に導かれている。エチオピア系の信者は約400名、イスラエル生まれのメシアニック・ジューは750~800名存在する。現在メシアニック・ジューの指導層は、ほとんどが西欧からの帰還者で占められているが、この体制は将来変化するだろう。西側出身者は人口比1/3~1/2と少数派であり、言語などの要素も含めて他のグループがやがて主導権を持つようになるであろう。
 
 1990年に妻と私が一年間イスラエルに住んで奉仕していたときには、12か13の会衆が各地に点在していた。現在は53の会衆と70ほどの家庭集会の群が存在するとMACは報告している。しかし未だに、福音宣教がほとんどできないような町もある。
 いろいろな会衆は隣人のユダヤ人に対して熱心に伝道するとともに、新帰還者、ヨーロッパや中国などからの外国人労働者たちにまで働きを拡大している。これらの労働者の中からすでに、数百人におよぶ信仰告白者が与えられ、イスラエルでバプテスマを受けている。彼らの言葉ができる人々によって、続いて聖書研究会が開かれ、帰国した者たちも故国において福音の良い証人となっているという。
 ルーマニア系のメシアニック・ジューとアラブ人のクリスチャン医師が導いている会衆がある。これはユダヤ人とアラブ人の信者間の協力関係が成長しつつある一つの実例である。私は度々ガリラヤ地方にある一つの会衆を助け、説教しているが、そこに近くの村から来ているアラブ人の信者がいる。彼は集会でロシア系の人たちのために通訳の奉仕をしているとともに、彼の村でイスラム教徒たちのために聖書研究会を始めたと聞く。イスラエルの教会に、このような信者がいるとはなんと素晴らしい衝撃であろうか!
 
私には、多くの学ぶべき事があった
 イスラエルのケヒロットに対する大きな攻撃とは何か? 現在、クネセト(イスラエル国会)に出されている“ピンハシ法案”は無視することができないものだ。この法案は「いかなる者も他人の宗教を変更させるために行動すれば、3年の懲役か50,000シェケル(約150万円)の罰金に処す」というものである。これが立法化されると、メシアニック・ジューもアラブ信者もイスラエル国内での伝道は違法ということにされてしまう。現在この法案はクネセト本会議の第一回読会にかけられるの待っている状態だ。
 また他の危機は、拡大している超正統派ユダヤ教徒たちによる迫害である。その一つは去る11月末に起こったベェルシェバ会衆に対する攻撃だ。彼らの集会所は、数百人の怒り狂った超正統派ユダヤ教徒たちに取り囲まれたため、警察が出動して30人ほどの信者と子供たちを保護したというのである。ケヒロットの集会は合法であるにもかかわらず、このような事件はイスラエルで多発・増大している。
 第三の攻撃というのは、外国からの信者が持ち込む教理的論争である。教会を分裂させるこのような行動は、イスラエル社会においてメシアニック・ジューたちに対する不信感を大きくする危険なものであり、福音宣教に対する大きなつまずきである。
 
 私はイスラエルを訪問し、ケヒロットのために奉仕をするようになって初めて、「私には多くの学ばなければならない事があるのだ」と気づかされた。まず、なぜ集会所の看板を外に出さないのか。土曜日に礼拝を守る習慣は。クリスマスや復活祭を祝わない理由などなど、、、私にとっては異端的とも感じるこれらの事柄に対して、なかなか受け入れ難かった。しかし私はこれによって一つの大きな事を学んだ。それは“神様はすべての人を同じ枠にはめ込む御方ではない”ということだ。イスラエルの信者はユダヤ人として、彼らのメシアの十字架で完成された御業を信じ頼っている。そして彼らの習慣の多くは聖書的であり、私たちのクリスマスや復活祭と同様に意味のある事なのである。                   
教会の完成
 “エルサレムの平安を祈る”というのは、聖地の政治的安定のことではない。(それは艱難期後に、メシアが再臨されなければ実現しないからである。) ロマ書11:5に記されているように、残りの者たちがメシアに導かれるという約束のためである。イスラエルにある信者の会衆のために祈ろう。彼らの集会施設や交通手段などの必要のために祈ろう。神様がみことばに熟知した多くの牧会者を起こしてくださるように祈ろう。反対、いじめ、迫害に身を晒されているイスラエルの信者たちのために祈ろう。彼らの数が続いて増やされるように、また勇ましく伝道ができるように祈ろう。“教会”がイスラエルで、また世界中で完成へ導かれるように祈ろう。
                       (AMFインターナショナル発行 邦訳;石黒イサク)